日田の皿山


   一

 筑紫の平野を車は東にと走る。見渡す限り金色に光る菜の花の敷物である。

あの黄色を好んだ画家ホッホが見たら狂喜したであろう。不思議にも美しい

自然は絵画を通して私達の眼に入る。田主丸や吉井を通れば、土塀や土蔵の

家々が町の古い物語を話しかける。これも泥絵の画工達が重々私達に「覚え

よ」と云ってくれた題目である。だが私の心が急ぐのは国を一つ越えた先の

日田である。平野の尽きたところに筑後川が迸る。河は急に二つの山を引き

つけて岩を砕き乍ら私の方に走る。しぶきをあび乍ら岩に佇んで糸を垂れる

者が見える。彼は香魚の季節のおそいのを怨んでいるのであろう。「うるか」

はこの地の呼び物である。漸次河が谿に沈むを思えば道が坂にさしかかった
       ミョウジ
ことが分かる。虹峠を降ると県標が佇む。福岡県から大分県に入るのである。

筑後が豊後に代わるのである。それよりもここで日田郷に入ると云った方が

よい。この道は日田あっての街道である。

 隈、豆田を合わせて今、日田町という。山間には思い掛けない都である。

土地の人は日田を「ヒタ」と言い慣わす。ここは水郷である。水郷であって

の日田である。幾条の流れが何処から来り、如何に合さり、何処へ行くのか、

地図のみが知っている。玖珠川、大山川、三隈川、花月川、そうして筑後川、

それ等の凡てを一身に繋ぐのが水郷日田である。だがここは平坦な水郷では

ない。緑に深い山の影が水に近く映る。流れつく筏は尚も谿が深いことを語

る。山水の妙が自からこの匿れた町に仕組まれている。まだ訪う折を有たな

い人に私は日田行を勧める。


   二

 だが私が今日はるばるこの日田を訪うたのは水のためでもなく、また春の

ためでもない。誰が私の目的を察し得ようや。又どこに私と同じ目的で此処

に来た者があろう。私はその自然にその歴史に心を誘われたのではない。こ

の郡の山間で貧しく作られる焼物に心を惹かれて来たのである。それはどん

な歴史にもまだ書いてはない。また日田のどんな産物にも挙げてはない。

「日田もの」と近在の陶器屋で呼んではいるが、土地の雑窯を意味するに過

ぎない。町の人と雖もそんな粗物に意を留めたことはないのである。それに

窯は更に五、六里も奥の山間にある。馬の背で町に運ばれて売られる時も、

多くは十数銭で買えるのである。高くとも円を越えるものは稀である。それ

に分布区域も山に遮られて遠くまでは届かない。焼く人と雖も寧ろかかる世

渡りを恥ずかしくさえ思っているであろう。かくして誰からも省みられず貧

しい歴史をつづけている。だが日田郡はその郡のどんな技師が手本に造るど

んな品よりも美しいものをこの窯から得ているのである。


   三

 四年程前に戻る。私は嘗て久留米の一軒の陶器屋で不思議な品々を見つけ

た。それはどうしても今出来のものとは思えない。それほど手法が古く形が

よく色が美しい。或ものは遠く唐宋の窯をさえ想起させた。心を惹かれ乍ら

それ等の数々の物を棚から下ろした時、凡てが同じ一つの窯で焼かれている

のを知った。そうしてその窯が日田郡大鶴村に在ることを洩れ聞いたのであ

る。それ以来その窯のことが心を離れなかった。文献を書物に探ったが、あ

らゆる努力は失敗であった。自から土地を踏むより致し方がない。日田行は

私の果たさねばならない旅となった。私は時折地図に思いをはせた。だが私

はその町に着くまでは、どのあたりに窯があるかをさえ詳にすることが出来

なかった。

 土地の人はそこを皿山と呼んでいる。この名は各地に窯を訪ねる人には既

に親しまれている呼び方である。皿を造る所、焼物の出来る場所、それを皿

山と呼ぶ。朝鮮でよく沙里というに等しい。日田の皿山は大鶴村の属し、小

字は小鹿田である。不思議にもこれを「おんだ」と読む。豆田を過ぎて筑後

川に沿うて下り、夜明村から北へと折れれば大鶴村の達する。その行程は四

里。そこからは車がきかない細道である。漸次谿に沿うて北へと登る。商い

の店もない淋しい村々が続く。柳瀬、中崎、桐尾、本入などを過ぎて小鹿田

に至る。その間二里半、そこを右に折れて道の至り得たところが峠である。

乙舞峠という。年老いた一本の松が旅人には憩いの茶屋である。降りること

僅かばかり、十軒ほどの家が谿間に固く寄り沿うて集まる。そこが目指す皿

山である。それは人も知るあの英彦山の近くである。彦山村には更に三里、

小石原には五里、往き来の殆どない寒村である。


   四

 だがこの窯は北九州の古窯を知る者にとっては異常な興味をそそる。なぜ

ならあの慶長頃から元禄にかけて旺盛を極めた朝鮮系の焼物が、今日殆ど湮

滅し去った時、ひとりこの窯ばかりは伝統を続けて今も煙を絶やさないから

である。あの三島象嵌が略化されて、これが白絵櫛描きの法に転じたことは

誰も知るところである。だが北九州であれほど盛んであったその手法を今も

活き活き続けているのはこの窯ばかりであろう。武雄町の南に弓野があるが

今まさに斃れようとしている。肥前の黒牟田や筑前の小石原にも多少残るが、

もう昔の勢いはない。筑後の二川はなおも指描で甕や鉢を飾る。併し変化は

多くはなく種類も亦狭い。然るに日田の皿山に至っては今も様々なものに櫛

描や指描や刷毛目などの手法を用いる。北九州の古陶を知ろうとする者は、

活きたこの窯に来ねばならぬ。

 どうしてこんな不便な山奥に窯の煙りが立ち始めたのか。村の年老いた者

の話によれば、今から凡そ二百余年前に筑前朝倉郡小石原村から来って陶法

を伝えたのだという。それ故歴史は二世紀余りを過ぎる。今は八室を有つ一

つの登り窯を共有で焚き上げる。月に二度も火を入れるというから僅か十戸

ほどのこの村も日々多忙である。寒い冬もなお仕事を休めない。村の者達は

男も女も皆陶工として生まれ、陶工として死んでゆく。そこでは八十を越え

たと思えるようなお爺さんが、今も轆轤で水引きをしている。窯以外に村を

支える道はない。別に名はなく皿山で通るのも無理はない。

 様々なものがここで出来る。白絵、刷毛目、櫛描、指描、流釉、天目、柿

釉、飴釉、黄釉、緑釉等々々。作る品は実用品ばかりである。水甕、酒甕、

大壷、小壷、鉢、土瓶、急須、茶碗、徳利、花立、湯呑、皿、擂鉢、植木鉢、

水注等々々。その範囲はいたく広い。小さな窯場でこれほど多様なものを造

る所も珍らしい。このことだけでも不思議な窯である。凡てを自給せねばな

らぬ山間僻地の地理が、このことを長く要求し、今もその習慣が続いている

のであろう。土地の農夫達は古くからの暮し方を容易に変えない。


   五

 峠を降りて村に入れば耳に聞こえるのは水車の響きである。焼物の土を砕

くのである。音の間はいたく長い。大きな受箱が少しの水を待っている。急

ぐ用もないのである。待ちどおしく思うのは吾々の心だけと見える。だがこ

の緩かな音があってこの窯があるのである。若しせからしい機械が入って来

たら、この村は忽ちつぶれるであろう。機械に職が奪われて了うからである。

狭い谿間は家のふえることをすら防いでいる。早く機械が動いたなら生産の

過剰に、忽ちものがはけなくなるであろう。この村とこの窯とには、待ちど

おしい水車が一番仕事を助ける。

 この窯では美しい緑釉を使う。白絵の上にそれを流すと色がいよいよ冴え

る。調子は静かで而も深い。だがどんな材料を使うのか。お爺さん達は私に

話してきかせる。それは銅のこわれた古鍋を買って来て、上に一つまみの塩

を載せる。そうして火にくべる。塩が銅に焼けついて黒い粉が出来る。それ

を掻き集めてこまかく擂る。出来上がったものが即ち銅の釉薬である。窯に

入れると美しい緑に生まれ変わる。それが昔から教わった法だという。今日

の化学的な言葉で云えば、将に炭酸銅である。だが不思議である。おくれた

こんな方法が結果としては最上である。研究所から出てくるどんな銅釉より、

もっと美しい色を出すからである。土は裏山から取ってくる。沢山ある赤土

である。野天に二、三段の溜を掘る。上から下に流れるにつれて水飛はすむ

のである。谿間から赤褐けた泥を取ってくる。黒い鉄釉も、柿も飴も黄もそ

れで万事ことが足りる。掘れば白絵の土も手許にある。釉掛けは生のままで

ある。決して素焼をしない。莢も棚も使いはしない。積んでぢか火にあてる。

もともと安ものを作るのである。趣味などで作っているのではない。万事が

粗野である。だがそれで充分である。否、それでないと充分でない。なぜな

らこのような事情ばかりが、凡ての自然な雅致を保障するからである。


   六

 窯は始まって以来変わらない。伝統が凡てである。同じものを同じ形を同

じ釉がけを今も続けている。私は近くの村で三十年も使っているという酒甕

を見た。だが今作っているものと寸分の違いがない。ここで美しい黒土瓶を

焼くが、近頃武雄在で発掘された元禄時代の土瓶と形も釉もさしたる違いが

ない。それ故現に作られる日本の土瓶のうち最も古格を保つものと云ってよ

い。この窯には時代が無いのだと云った方が早い。思いようによっては正に

時代遅れの窯である。それを謗る人もあろうが不思議なことには最も進んだ

科学が産むものより、兎も角美しい。これを想うと今の知識の頼りなさがし

みじみと身に迫る。神学校の先生達を、あの篤信な善男善女に比べるのと同

じ感じである。工学博士の建築を田舎家に比べる時とも同じである。一方に

は比較出来ない学問の優越さがあり乍ら、只一物に欠けているのである。美

になくてはならぬ肝腎のその一物だけが無いのである。

 かかる日田の山奥の窯場に来て、私達は時代離れに心酔してはならない。

だが同時に時代遅れを笑うわけにゆかない。私達は何が美を産むかを学びた

いのである。その一物さえ掴めれば、町に出ようと機械に交わろうと知識を

ふやそうと、どんなことをしてもよいのである。進んだ時代はあと帰りをす

る必要はない。時代が与える境遇に処してよいのである。だが若し肝腎の一

物が掴めていないなら、私達は新しい文化を誇ってはいられないのである。

丁度古い時代に耽溺してはならないのと同じである。日田の皿山は正に現代

の反律である。だがそれだけに学ぶ点が極めて多い。吾々に欠けている一面

を豊富に有っているからである。そうしてかかる一面には時間に左右されな

い力がある。


   七

 山の日は早く暮れる。僅かばかりの金を払って背負い嚢に天目の土瓶やら、

飴色の「うるか」壷やら、黄色の茶碗やら、緑釉の小壷などを入れて村と別

れる。私には大事な宝物である。重くても軽い。峠にかかると五、六頭の牛

が降りてくる。見ると各々細長い筏を路の上に引きづってくる。山から垂れ

る水で赤土の道はすべりがよい。後ろに一人づつ人がついて路からはづれる

材木を鶴嘴で掻き集める。それが河のように流れて降りてくる。山に筏が動

くのは生まれて始めてである。なぜこの窯が今も昔のように作るかがよく分

かる。再び峠の頂きに来る。振り返って又来たい心が切りに湧く。私は近い

うちにそれを果たしたいと今も思っている。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:昭和6年初稿・昭和17年訂正単行本】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)

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